少しだけ映画の話を

配給会社に勤務。つらつらと書き綴ります。

私は”彼”に心の底から嫉妬している。『パターソン』映画評

 
ジム・ジャームッシュ最新作として話題を集めた『パターソン』
 
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興行成績を見てもなかなかの良い結果を残しているのはなないかと思う。永瀬正敏さんが出演していることもあり、日本人にとっても受け取りやすい作品ではないだろうか。
 
この映画は"言葉"の映画である。
 
主人公パターソンは自らの名前と同じパターソンという街に住むごく普通のバス運転手。だが、彼には「詩」という秀でた才能があった。
 
流れ行く日常の風景の中で、随所に挟まれていくパターソンの綴る"言葉"。スクリーンには彼の手帳に書き込まれた"言葉"たちが浮かび上がってくる。
 
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同様のシークエンスは心地よいリズムで、作中に何度も繰り返される。これが素晴らしい。
 
私自身、詩に関しては全くと言っていいほど知識を持ち合わせいない。
 
詩を普段から嗜んでいる方々には大変失礼な話かもしれないが、正直「詩」という言葉を聞くと、どこか高貴で私たちの生活とは離れた場所にあるモノのように感じる。しかし、この映画を見て「詩」に対するイメージが大きく変わり、こんなにも身近で、愛おしくモノだと思えるようになった。
 
 
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本作はただ単に日常を何気なく切り抜いて「どう?こんな毎日もいいでしょう?」と見せるよう映画でなく、流れ行く時間の切り取り方を提示する映画だと考える。
 
 言語学の有名な仮説にこんなものがある。
 
「言語が思考を規定する」
 
言語が変われば、思考はその言語に依存することになる。例えば日本語は「理由→結論」型なのに対して、英語は「結論→理由」型の言語だ。そのため欧米人は常に端的に物事を考え、会話も常に伝えたいことを明確に述べる傾向がある。
 
この仮説は個人的には正しいものだと思う。(余談だが、記憶に新しいものでドゥニ・ヴィルヌーブ監督『メッセージ』(2017)もこの仮説に基づいたストーリーであった。)仮説の真意は違えど、思考するための知識や方法を知っていることは、人生の見方を180度変えることもできるということではないだろうか。
 
そしてこの仮説思い出し、私はパターソン、引いてはジム・ジャームッシュ監督が羨ましくて堪らなくなった。
 
映画の中で映し出される映像を、私は何気ない日常としかイメージとして捉えることが出来なかったが、パターソンにとっては周囲の人間が「何気ない」と考える時間を、自らの豊かな"言葉"に支えられた思考の中で何十倍も楽しんでいるのだ。
 
「時間」は全ての人に平等であるが、「思考」は平等ではない。水の流れる音、家にいつもあるマッチ箱、バスの中での乗客の中身のない会話。その一つ一つを自分の言葉で愛おしいモノに脚色していく。
 
また、双子の子供や愛犬が毎晩倒す郵便ポストなど彼の生活には「韻」がある。しかしこれらも詩を嗜んでいなければ気にもとめないような些細なことになって、受け流してしまうかもしれない。
 
彼は、意識しなければ"日常”として受け流してしまうようなものを”言葉”で切り取り、”詩”という新たな表象物に昇華させているのだ。
 
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『パターソン』で見た彼の感性溢れる言葉で綴られた”日常”は、もちろん彼にしか見えないものである。(他人がその世界を見ることができる唯一の方法が手帳でしたが…。)
 
そしてジム・ジャームッシュ監督が持つ視点も、彼の映画を通してしか見ることができない。 音楽にも精通し、キュレーターとしても有名な彼の作品を見るたびに、「映画」や「音楽」という切り取り方を持つ彼に私は嫉妬している。
 
 
 
 
この映画からは、これからの”日常”を過ごすために大切なことを教えて貰えた気がする。
 
毎日は、この世界は、あれほどにも愛おしく思える。
それは自分の切り取り方次第だと。